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ー第2章ー 1.l’aventure Ⅰ

Author: 土浦タカ
last update publish date: 2026-08-26 08:46:13

一九六○年イレヱヌ達は高等学校一年に上がる年に入った。

イレヱヌは中等部三年の二週間の春休みを利用してオリエント急行での旅行を計画した。アガサ・クリスティの“オリエント急行殺人事件”を読んでからずっと乗りたいと密かに思っていたのだ。小説が発表された時代はまだ飛行機も無かったためかなり利用客が多かったようだが今は其処まで混みあっていないと聞いた。春休みの予定をセシルと話す事になり、イレヱヌがそう答えると「じゃあ僕も一緒に行くよ」と云った。耳を疑い「えっ」と思わず驚く。セシルがアガサ・クリスティを好きとは聞いた事も無かったし、“オリエント急行殺人事件”を読んだとも聞いていない。不思議に思っていると「恋人と二人きりで旅行したいって思うのはそんなに変なの?」とセシルが拗ねて訊いてきた。

「あたし、今まで旅行は家族と行くものだと思ってたから」「恋人同士でも行っても変では無いよね。そういえば」イレヱヌの其の言葉に

「僕は家族で旅行をしたことも無いよ。楽しみだね」と微笑わらいかけながらセシルが言った。イレヱヌも楽しみに胸を膨らませながらも家族で旅行に言ったことがない、というセシルの言葉が引っ掛かった。イレヱヌはセシルの家族の話を本人から聞いたことは一度も無い。何となく触れてはならないことのような気がしたからだ。

オリエント急行は仏蘭西発のものにした。スイス発のものもあるがその前にセシルが巴里パリで買い物をしてから乗りたがったからだ。セシルは最初巴里パリの老舗ホテル“オテル・リッツ・パリ”に泊まりたがったが、巴里パリ観光でシャネルやディオウルの服を買いたがっている事を知り、“オテル・リッツ・パリ”の宿泊費で服が買える事を伝え、ジャンヌの所有するアパルトマンに泊まる事になった。セシルはオリエント急行での旅の後は暫くアパルトマンでゆっくりしつつ、観光をすることを希望したためルルが淋しい思いをしなくて済むようにルルも連れて行くことにした。

アパルトマンは巴里パリ十六区にあった。残念ながらこの時はアルジェリア独立に反対する極右武装組織のテロ行為が行われていたため、イレヱヌの記憶よりも物騒な空気となっていた。保守的な富裕層や政府要人が多く住む区域であったことの影響だ。

アルジェリアの治安維持のために仏蘭西軍が派遣されていることやアルジェリアが独立しようとしていることなどをニュウスで聞いていたものの、実際にその爪痕を生々しく感じるのは初めてだ。自分の愛する仏蘭西、巴里は少しずつ罅が入り、今にも崩壊しようとしているという恐怖に襲われる。そして、崩壊する時は近いのかもしれない、ともイレヱヌは思う。アルジェリアは元々仏蘭西の国土の一部ではなかったのだから、この混乱は考えてみれば必然だ。自分達の身勝手な都合により、“花の都巴里”は自らの手で枯れようとしていた。そもそも搾取の上に成り立った繁栄なのだから総ては虚栄だったのかもしれない。

武装した警察や散らばる硝子の破片に警戒しつつも暫く歩くと懐かしいオスマン調のアパルトマンが見えてきた。そのアパルトマンは亜米利加に移る前にジャンヌが、そして亜米利加での生活が始まってからは巴里パリに滞在する際にイレヱヌも利用した。此の建物は被害に遭っていなかったらしくほっとする。セシルは巴里パリの建物がエレベエタアもよく故障するため階段で上がらなければならないことも珍しくないというイレヱヌの話に仰天していた。確かに亜米利加からすれば信じられない話だろう。幸いこの日は問題なくエレベエタアは動いた。セシルがキャリィケエスを幾つも持っていたため、イレヱヌはほっとした。

ドアを開けると懐かしい光景が広がった。

ダイニングにはカウチソファが置かれ、ウィリアムズ・モリスの瑠璃ハコベとポピーの花のテキスタイルが用いられたクッションが彩っている。

ソファの前には天然大理石マアブルの一枚板が使われた卓子テェブルが鎮座している。

リビングとダイニングはコロマンデル屏風で仕切られていた。天井はヴェネツィア風硝子の|天吊燭台《シャンデリア》が灯りを灯し、桃花心木マホガニィでできた中国趣味シノワズリのキャビネットにはジャンヌの好きなガレやティファニィ等の食器類が飾られていた。

そしてウォークインクローゼットにはポオル・ポワレのデザインしたドレスが収集コレクションされている。ポワレの熟慮した豪奢な作品は時代遅れとされたらしいがドレスという非日常の物が熟慮した豪奢なものでなくてどうするのだろうとイレヱヌは不思議だった。変わらない光景にイレヱヌはほっと息を吐く。

「此処がイレヱヌのお家?すっごく素敵だね」とセシルから眼を輝かせながら率直に褒められたため、「ママンが聞いたら喜ぶよ。ママンはインテリアに凄く拘ったらしいの」とイレヱヌは微笑わらった。エドワアドとジャンヌが再婚してからは巴里パリには余り帰る機会が無くなった。二人とも仕事で忙しいため、海外に行く時間が無くなってしまったのだ。亜米利加にいた頃はイレヱヌもまだ幼かったため、一人で仏蘭西に行ける筈も無かった。二人でマリアァジュフレエルの紅茶を飲み、ラデュレのマカロンを食べてのんびりと過ごす。そして其の後はセシル念願のショッピングが始まった。服を両手で持ちきれない程購入したためタクシィを利用することになってしまう。やはりホテルを利用しなくて正解だった、とイレヱヌは自分の判断の正しさを思い知った。

ルルはアパルトマンの大家オーナーに旅の期間は預かってもらい、イレヱヌ達はリヨン駅に向かった。オリエント急行は最近はアガサ・クリスティの時代程は利用客はいないらしい。飛行機が誕生したのだから当然といえば当然だ。しかし其れでも古き良き時代の空気を味わいたい人やのんびりと旅を楽しみたいという人には変わらず愛され続けていた。但し冷戦の影響で国境での路線が昔とは変更されたり検問など煩わしい問題も生まれていた。東西冷戦は全くろくな影響を与えない。鉄の窓帷カァテンの影響で今はユーゴスラビア、ブルガリア、トルコ間での出入国審査や通貨チェックに非常に時間がかかってしまうため、イスタンブゥルまで行くのは諦め、最終目的地はヴェネツィアにした。

オリエント急行を目にした瞬間からイレヱヌは胸の高鳴りが押さえられなかった。あれがオリエント急行!ポアロが乗ったオリエント急行

だ!イレヱヌの頬は上気して思わず軽くスキップをしてしまう。

「イレヱヌったらはしゃぎすぎだよ」くすくすとセシルのからかい笑いが後ろから聞こえてくる。

イレヱヌ達はワゴン・リ社の象徴である紺色ネイビイの車体に金色の二頭の獅子の紋章を付けた寝台を利用した。かつての豪華列車の名残りを少しでも感じたいからだ。ポアロが利用したであろう時代は全行程で食堂車が連結されていたらしいが、今や特定の区間だけ連結される方式になっているらしい。イレヱヌは時代の流れの悲しさを感じた。オリエント急行は入った瞬間から廊下が艶のある桃花心木マホガニィで出来ており寄せ木細工と水晶クリスタルの象嵌装飾が施された仕切り壁があった。アガサ・クリスティの描写其のままの空間に感動をイレヱヌは胸が熱くなった。“走る貴婦人”“青きプリマドンナ”の名に相応しい美しさだ。イレヱヌ達の部屋は隠し扉の後ろに洗面台とシャワアのある最新の一等寝台だった。全部屋にシャワアが付いている訳ではないと知り、シャワアの付いている部屋を事前に予約しておいた。ポアロのように予約をし忘れたために二等寝台を利用するという悲劇は避けたかった。(勿論ポアロがどの様な部屋で過ごしたか興味はあったが、セシルに最近はバックパックや出稼ぎ労働者も利用するから危ないと思うと諭され諦めた)

シルクハット、モーニング、白手袋をした案内係の誘導でイレヱヌ達は予約していた部屋に入る。昼間はソファ席だが夜はポーターが 寝台ベッドに変えてくれる。側にはランプシェイドがあり、磨き上げられた真鍮のドアノブ、ランプ、コート掛けを暖色の照明が照らしていた。イレヱヌ達は食堂に向かうために正装に着替える。

「セシル、その服とっても似合う」イレヱヌが目を輝かせはしゃいだ声を上げると「そうでしょ?僕もそう思うよ」とセシルは胸を張って答えた。セシルはサテンのピンクのカクテルドレスに真珠パアルと白のオペラグローブを着けていた。イレヱヌはエンパイアウエストの白いドレスに黒のオペラグローブ、金剛石ダイヤモンドのネックレスとイヤリングにした。ドレスアップしたお互いの姿を見て、二人とも気持ちの高揚が抑えられなかった。はしゃぎながら桃花心木マホガニィで出来た廊下を通過して食堂に到着した。

食堂は華やかに着飾った紳士、淑女達がその空間を彩っている。毛皮、金剛石ダイヤモンド、真珠パアル、ブラックタイ、胸当て。和やかな談笑とカトラリイの奏でる音が食堂の空間に漂っていた。

イレヱヌ達は

前菜 (Hors-d'œuvre)フォアグラの半生仕立てミ・キュイ

スープ (Potage)季節の野菜のクリームスープ

魚料理 (Poisson)舌平目のボヌ・ファム(白ワインソース蒸し)

主菜 (Entrée)羊ラム肉の牛酪焼きカトゥレット

サラダ (Salade)季節のグリーンサラダ(フレンチドレッシング)

デザアト (Dessert)スフレ・フランベ

仏蘭西産の乾酪チイズ各種

を食べた。

セシルは「デザアトと一緒に数種類乾酪チイズが付くんだ」と驚き「仏蘭西ではこれは普通だよ」とイレヱヌが説明をした。

コースには食前酒アペリティフもあり、イレヱヌは断ったがセシルは平然と飲み干したので呆れてしまった。舌だけでなく眼でも楽しめるキュイジーヌ・クラスィクはお腹も心も十分過ぎるほど充たしてくれるものだった。充たされ過ぎてドレスが若干きつくなってしまった。

部屋に戻るとポーターがソファ席を 寝台ベッドに変えてくれていた。イレヱヌが感心して部屋を見渡しているとセシルに背後から抱き締められた。

「イレヱヌ、“シラノ”で顔が紅くなってたね?」耳元で囁かれ「え、」「シリルの事好きになった?」予想だにしなかった言葉に驚いて「そんなわけ無いじゃない。驚いただけだよ」と答えると

「ねえイレヱヌ。お願いだから何処にも行かないで」「誰の物にもならないで」凝じっと此方をセシルは見詰めてきた。母親にすがり付く赤ん坊のようだった。セシルの様子に胸が痛くなる。

「なるわけ無いじゃないの。どうしてそんなに不安になるの?」そう答えてイレヱヌも抱き締め返す。今はただただセシルを安心させてあげたかった。

セシルの細い腕と脚が絡みついてくる。まるで蔦のように絡み付いてイレヱヌは身動きがとれなくなった。セシルの細い首筋から茉莉花ジャスミンや薔薇の馨りがする。マリリン・モンローも愛用するシャネルのN°5の馨りだ。鏡に自分とセシルの姿が見える。エドワアドの好きなエゴン・シイレの絵を思い出した。絡み合う男女の湾曲した肉体。生々しい皮膚の色合いがイレヱヌの頭を過った。子供の頃は恐ろしいとしか思えなかったあの絵の姿が鏡に映っていた。

「集中してイレヱヌ」セシルの拗ねて甘える声が聞こえた。何度も唇を食まれ口の中を舌が動き回って身体が震える。身体を柔らかなシーツが包み込んだ。イレヱヌの全身を指先が辿った。まるで全身を羽毛で擽られているようだった。むず痒い感覚に身悶え、身体を丸めて必死で襲い来る衝動を遣り過ごす。

セシルは絹シルクよりもハリがあってすべらかなイレヱヌの皮膚の触感を愉しんだ後イレヱヌが意識さえしたことの無い箇所に触れた。その瞬間、脊髄に電流を流されたかのような衝撃ショックが走る。自分の身体なのにまるで抑制コントロォルが出来ない感覚に恐怖を感じ無意識に脚の内側に力をいれる。耐えきれずシーツの中で身体が溺れた。

悲鳴を上げ、足の指先を丸めるイレヱヌをセシルは愛おしげに見詰めると脚の間に顔を埋める。柔らかいもので触れられている筈なのに、強すぎる衝撃ショックで全身が痺れた。イレヱヌの真珠で磨かれたような肌は、朝焼けの耀に照らされたような色に染まり、背筋は弓なりに反った。金糸の髪がシーツに散らばる。その後は身体の奥で嵐が起きた。波に漂うかのように身体が揺れる。揺らしているのは列車なのかセシルなのか判らなくなっていった。

まるで嵐に巻き込まれたかのように衝撃ショックに翻弄され続けた。衝撃ショックに何とか耐えようとセシルの背中に無意識にすがり付く。ただただ無我夢中だった。セシルの微笑わらい声が降ってくる。「可哀い」「嗚呼、もう我慢出来ない……」苦しそうな息遣いの合間に耳に届いた。強い衝撃ショックの後は自分の身体が浮き上がってくるような感覚に変わった。嵐がやっと過ぎ去った。自分の先ほどまでの姿を思い出しそうになり、頭を振りかぶった。あんなのは自分ではない。イレヱヌは自身にそう言い聞かせる。「イレヱヌ、身体は大丈夫?」セシルの声が上から降ってきた。「御免ね。可哀すぎて抑えがきかなかった」セシルの言葉に顔が赤くなるのを感じた。

実際に、セシルから見たイレヱヌは堪らなく可哀くて可哀くて仕様が無かった。小鳥の様に震え、足先を丸めるイレヱヌは普段からは想像も付かない姿だった。顔を薔薇色に染めて薔薇の蕾の様な唇を開き、椿カメリア色の舌を覗かせる淫靡な姿にどうしても抑制をすることが出来なかった。エルメスのスカアフよりもハリがあり滑らかな肌は何時までも指を滑らせたくなる質感をしている。バレエで鍛えられたしなやかな筋肉の付いた肉体はまるで野生の獣の様だった。花から滴る甘い蜜を少しずつ舐めるように何時までも味わいたくて夢中になった。

「大丈夫」何とかイレヱヌは言葉を発した。少しでも早く何時もの自分に戻りたかった。恋人同士なんだからおかしな事をした訳ではない。自分にそう言い聞かす。そしてこの旅で自分達はホテルを同じ部屋で取っていた事を思い出した。あ・れ・をこの数日でまた何度かするかもしれない。ちゃんと受け入れられるのだろうか、と不安が過った。

「何処か痛いんじゃないの?」セシルが恐る恐る伺った。「大丈夫」イレヱヌはシーツに顔を埋めながら再びそう答える。ただただ恥ずかしい。其れだけで頭はいっぱいになっていた。何時かはあ・れ・を平然と受け入れられる様になるだろうか?イレヱヌは不安に駈られた。

「もしかして、怒ってる?」セシルのそんな言葉が降ってきた。顔を上げるとセシルはまるで親の顔色を気にする小さな子供の様な顔をしていた。

「怒っていないよ。何で?」不思議になり訊ねると「だってイレヱヌ、ちっとも此方を見てくれない」セシルがしょんぼりと答えた。イレヱヌは不意に笑いが込み上げる。其のままセシルを抱き締めた。「怒ってない」直ぐに答えた。

「あたしはああいう事に慣れていないから、どうしたら良いか解らなかっただけなの。」そういってセシルの頭にそっと接吻キスを落とした。「そんな顔しないで、可愛い人Mon chouchou」セシルを安心させたくて微笑わらいかけた。

早熟な筈のセシルが小さな子供の様な顔をしているのが堪らなく可愛かった。セシルは珍しく頬を赤らめた。

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